「脳死」と臓器移植〜摘出される側の立場は?
2006-07-16


臓器を摘出される側への想像力はないのでしょうか。

【主張】臓器移植法 改正案の早期成立を求むSankei Web 産経新聞

移植を待つ患者やその家族ら計5団体12万人で構成する「臓器移植患者団体連絡会」が、臓器移植法の一日も早い改正を求め、8月下旬から10月初旬にかけ、福岡、大阪、名古屋、札幌、東京の各都市で順次、シンポジウムを開催する。開催を前に代表幹事の大久保通方氏は「改正案を一度も審議せずに放りっぱなしにしてきた国会の責任は重い」と訴える。

その通りである。継続審議扱いの改正案を秋の国会できちんと審議し、早期に成立させるべきだ。

この産経の社説,「脳死」段階で臓器を摘出されることとなる患者やその家族の立場への配慮が全く見られません。

「脳死」状態での移植については,そもそも認めるべきか否かを含め,日弁連が何度も指摘するように(直近の意見書はこちら(PDF),意見書作成の背景事情はこちら),多くの問題があります。

先日,米国での「脳死」者からの臓器移植の実態や,「脳死」者の様子を映したビデオを見る機会がありました。

まず,「脳死」者からの臓器移植の場面。交通事故で運ばれた病院に次々と他の病院(他州の病院もありました。)から臓器を摘出に移植スタッフが現れるのです。最初に,まだ脈を打っている心臓を摘出する場面は思わず息をのみました。心臓の後,各臓器,そして皮膚,さらには眼球までが摘出されていくのです。まるで部品に解体していくかのように。人体がまさしく資源として扱われていくのです。

続いてベッドに横たわる「脳死」者の様子。「脳死」者というと心臓死直前で動けないというイメージをもたれるかもしれませんが,この「脳死」者は外界からの接触に反応して身体を動かしています。この人が「死んで」いるなんてとても思えません。

また,最近の研究論文では,脳死後も長期にわたり生存する患者の存在があきらかになっており(前記日弁連意見書),脳死を死とする生物学的・医学的根拠に疑問が呈されています。報告例では,4歳の時に「脳死」宣告を受けてから報告時まで14年半を経ても生存し,第二次性徴も迎えているというのもあるほどです。さらに,「脳死」者の中には,出産まで行う人もいるといいます(小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』)。

それに,「脳死」者といっても,心臓は動いているので,身体はあたたかな状態で,さわるとぬくもりが感じられるといいます(森岡正博『脳死の人−生命学の視点から』)。

こうした「脳死」者の様子を目の当たりにして,もう亡くなっていますから医療はできません,臓器を摘出したいと思います,と言われて「脳死」者の家族は納得できるのでしょうか?納得できなくても,医療現場における医師の力(威厳?)に押されて拒否できずに移植されてしまう,そんな悲劇が起きるのではないでしょうか。

ところで,「脳死」がどういうものか,「脳死」者が実際にはどのような状態にあるものなのかに関し,市民に対して政府からは,上記のような現実は伝えられていません。自分の生命・身体をどのように処分するのか決めるよう求めながら,そのような処分がどのような場面で効果を生じるのかについての正確な知識を提供していない,というよりはむしろ,誤解を与えるような説明をしているのです(前記日弁連意見書(PDF)7〜10頁(9〜12枚目))。


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[高度医療・精神医療]

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