今朝事務所に出たら,日弁連の機関紙である「日弁連新聞」(2006年8月号)が届いていた。
その「ひまわり」欄(天声人語とか編集手帳のようなコラム)に載っていたコラムを見て仰天(個人名は伏せ字とする。)。
○○事務次長が(中略)逝去した。まだ四九歳。その一週間前にクモ膜下出血で倒れ,周囲の願いもむなしく不帰の客となった▼彼はこの一〇年間,(中略)を歴任し,司法改革を中心的に担ってきた。特に司法支援センターに深く関わり,市民に身近な司法を作っていくために最大限に努力した。日本司法支援センター対応室長として,各地の実情に応じた対応体制をいかに実質化させていくかに日夜取り組んでいた▼その支援センターが一〇月に業務開始する。埋もれていた法的需要に各地で的確に対応して泣き寝入りを解消していくことや,司法過疎を克服していくことなどを,○○さんは見ることが出来ずにこの世を去ることになった。さぞ残念だったろうと思う▼最後の言葉が『手帳を持ってきて・・・』とのことである。いかに今後の取り組みに心を残していたか,胸を締め付けられる思いがする。皆でよりよい司法を実現していくことこそが,彼が一番望んでいたことであり,その遺志をひきつぐことにもなろう▼今後二度とこのような自体が起こらないよう,いろいろな方策をとる必要がある。○○さんが遺したものを,しっかりと受け止めて実行することが我々の責任だと強く感ずる。
1か月ほど前に受信した,弁護士会のメールニュース内の二弁会長(日弁連副会長を兼ねる。)のコラムが脳裏に重なった。
○○日弁連事務次長の「戦死」(二弁eニュース299号)
日弁連事務次長の○○さんが、(中略)亡くなられました。7月3日の未明にくも膜下出血で倒れ、そのまま、帰らぬ人となってしまわれました。○○さんは41期で、まだ40才代の若さでした。
○○さんは、本年度の最重要課題である日本司法支援センター問題の担当事務次長であり、連日連夜、粉骨砕身、献身的に取り組んでいました。日本司法支援センターの業務開始まで残すところ2ヶ月半となりましたが、今日までの多くの難問を乗りこえて、日本司法支援センターの開業準備がオン・スケジュールの状態で進んでいるのは、○○さんの懸命な尽力に依るところが大きかったといえます。○○さんの死は、日本司法支援センターの歴史を拓く為の壮絶な戦死であるように思えてなりません。
(中略)
○○さんが命をかけて推進してきた日本司法支援センターを、必ず成功させますよと、○○さんに心の底から誓いたい。
○○さんのご冥福を心からお祈り致します。合掌。
以上2つの文章は要するに「屍を乗り越えて司法改革に進もう!」と言っているようにしか私には見えない。反吐がでそうだ,全く。
私は末端弁護士だから,日弁連の内部のことはよく知らない。でも,副会長といえば日弁連という組織を「運営」する側で,片や事務次長といっても事務方のナンバー2,使用者と被用者という関係に似たところがあるだろう。その「被用者」側の人間が亡くなったことに関して「戦死」とか,「命をかけて推進してきた日本支援センターを,必ず成功させますよと,○○さんに心の底から誓いたい」とか使用者側の人間が言うのは責任逃れ以外の何ものでもないのではないか?業務内容に無理があったとか,進むべき道を誤っていたのではないかという反省・悔悟の念は生じないのだろうか。
日弁連新聞「ひまわり」のコラムについては,
今後二度とこのような事態が起こらないよう,色々な方策をとる必要がある。
と述べており,反省の念は見て取れる。しかし,「遺志を引き継ぐ」「○○さんが遺したものを,しっかりと受け止めて実行することが我々の責任だと強く感ずる。」としているのでは,本当に反省・悔悟する気があるのか疑ってしまう。
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